Krishnamurti 分析なき観察    Ver 1.0




質問者:精神分析家は、
その問題が何であるかを知ることによってのみ人は癒されると主張しています。
しかし、これは常に真実ではありません。
悩みの原因を知るにも関わらず、なおそれを免れることができないとき、
どうしたらいいのでしょうか。

クリシュナムルティ:この問いには、「分析者」と「分析されるもの」の問題が含まれています。
あなたはセラピストのところに行くかもしれませんし、
あるいは行かずに自分で自己分析をするかもしれません。
しかし、そのどちらの場合にも「分析者」と「分析されるもの」とが常にあります。

あなたが無意識を調べたり夢を解釈したりしようとするとき、
調べる人と調べられる対象としての意識とが必ずあります。
そして、調べる人・解釈者は、
彼自身の条件づけの背景・関心・欲求から彼が見るものを分析します。
それで、分析される対象を制御・操作し、変化させようとする分析者を伴う、
「分析者」と「分析されるもの」との間の分離が常にあるのです。

故に問題は、
「分析者は正しく分析することができるのかどうか」ではなく、
もっと基本的に、
「分析者と分析されるものとの間に、何らかの分離が実際にあるのかどうか」です。
私たちは、そのような分離があるということを当然のことと考えてきました。
しかし、それは実際にあるのでしょうか。

分析者もまた、私たちの思考の結果です。
それで本当は、分割はまったくなく、
そうではなく、私たちがそれを作り出してきただけなのです。

私たちが、この「思考者は彼の思考とは別のものではない」という事実を、
「思考と云うプロセスのみがあり、その他(外)に、どんな思考者(と云う実体)も居ない」という事実を完全に知るなら、
そのとき内面的葛藤の問題への私たちのアプローチ全体がまったく変わるのです。

結局、あなたが考えないなら、どこに思考者がありますか。
考えることの質、安全でありたい、永続的でありたい欲望と共に、
さまざまな経験の記憶が、考えることと離れて思考者を作り出してきたのです。
私たちは「考えることは一時的だ、しかし思考者は永続的だ」と言います。
あなたは思考者を、永続的だ、不朽だ、神聖だ、と呼ぶかもしれません。
しかし実際には思考者など存在しなく、思考の過程があるだけです。
そして、思考の過程だけがあって、考えている思考者がいないなら、
私たちはどうやって私たちの問題に手をつけたらいいのでしょうか。

私は問題を明確に説明できているでしょうか。
それとも、それを複雑にしているだけでしょうか。
たぶん、それはまったく明確でないのでしょう。
なぜならあなたは、いま単に私の言葉に聞き入っているに過ぎず、
それを直接に経験してはいないからです。
自分の歯が、いま実際に痛むのと、
他人の歯痛の記述に聞き入っているに過ぎないのとでは大きな違いがあります。
そして私はその種の何かがいま起こっていることなのではないかと思います。
あなたは、あなたの問題を解決するやり方を教えてもらうことを望んで、
単に記述に聞き入っているに過ぎないのです。

簡潔に言えば、私の言っていることはこうです。
あなたが「思考の過程のみがあり、思考者はいない」ということをひとたび充分に理解するなら、
そのとき生の全体に対するあなたの取り組み方すべてが途方もない変化を受けるのです。

なぜなら、「思考の過程のみがあり、その思考を制御することができる思考者はいない」
ということを、あなた自身で見ることによって、
あなたは葛藤の根源そのものを一挙に取り除いてしまうからです。
葛藤を引き起こしているのは思考と思考者との間の分離なのです。
そして、ひとがその距離を取り除くことができるなら、問題は何もないのです。



分析者は分析される内容であり、
分析者と分析されるものとの間の、この分離のなかに葛藤の全てがあります。

心は分析の観念から完全に自由でなければなりません。
―分析の過程全体の真実を見ることによって。
その真実が理解をもたらすでしょう。

間違っているものを見るとき、あなたはそれを完全に捨てることができます。
私たちが混乱するのは見ないときだけです。



しかし、恐怖について何かしようとしている実体それ自身が架空のものなのです。
事実あるのは恐怖だけです。
見守っているものも、また恐怖なのです。

このことが明らかなら、
観察者は観察されるものであり、思考者は思考であり、行為者は行為であり、
そこに分離はありません。

観察者と観察される対象との間に分離がなく、したがって葛藤がないということ―
それは、私が実感しなければならない途方もない事実なのです。
葛藤は、観察される対象とは別の(観察される対象とはとは離れた)観察者が居るとき存在します。

私たちは恐怖を注意して見ることができます。
そして、その注意深い観察のなかで、
恐怖の起源、始まり、作用を見出し始めます。
しかし、それは恐怖を分析するということではありません。
なぜなら、分析者は分析される内容物だからです。
分析し、細かく調べるのではなく、非常に親密で繊細なその観察が、
恐怖の内容、起源、始まり―その全貌をあらわにするのです。





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